記憶が薄れゆく母をどう守るか?10年後を見据えて親戚と話し合ったこと──【私の家族は認知症】

もしあなたの身近な人が認知症になったら──。認知症にまつわる実体験をつづったコラム連載「私の家族は認知症」。今回の書き手は、実母の認知症介護をして10年目となるフリーライターの横山由希路さん。母が認知症と診断されてから、グループホームに入所するまでを振り返ります。


「ちょっと! 姉さんの様子がなんか変だよ。もしかして認知症じゃないの?」

ある夏のお盆休み、お墓参りにやってきた母の妹に、私はいきなり言われました。叔母は、ホームヘルパー2級の資格を持つ元スナックのママ。介護職にこそ就いていませんが、接客業で鍛えた持ち前のコミュニケーション能力と人間観察力で、母が認知症であることを一発で見抜いたのでした。

叔母に悟られた夏の日から遡ること7カ月前、母は日常生活で徐々に不穏な兆候を見せ始めていました。

頻繁に会っていても、すぐに気づかなかった母の認知症

私は母一人子一人の家庭で育ったため、よそのご家族よりも母娘の距離が近く、なるべく早い時期に実家を出たいと考えていました。私が家を出たのは27歳。その後、一人暮らしになった私と母は、互いの家を行き来するようになりました。

別々の暮らしが9年続いた、ある年の1月のことです。実家に帰ってみると、家中が真っ暗になっていました。母に「どうしたの?」と聞くと、「近所の人が私を監視しているから、新聞紙のカーテンで窓に目張りをしているの」と言います。母はその後も幻視の報告が増えていきました。

当時、私は36歳で雑誌編集者をしていました。意を決して、ゴールデンウィークに一人暮らしの家を引き払い、実家に戻って母を病院に連れていこうとするも、これがなかなか上手くいきません。「私は病気でもなんでもないので、病院に行く筋合いはないわ!」と言い張る母との攻防は、2カ月間も続きました。

やっとの思いで病院に連れていくと、即日診断が下されました。母の病名は、アルツハイマー型認知症でした。

母の困りごとを書き綴ったメモ
母の困りごとを書き綴ったメモ。母の不穏な様子を、よその人に開示せざるを得ない状況に胸が傷んだ。しかしこのメモがあったことで、医師から即日診断が下り、要介護認定もスムーズだった。

すぐに私は会社の上司に、母が認知症になった旨を報告しました。しかし本来なら、いの一番に協力を仰ぐべき、同じ敷地内に住む母の兄夫婦・弟夫婦に全く報告をしませんでした。理由は母と叔父の間で起きた小さな諍いです。いま思えば、その小さな喧嘩も母の認知症による妙なこだわりが原因でしたが、私は親戚間の空気を感じ取って、一人で1カ月も悶々としていたのです。

親戚会議で決めた3つの介護ルール

しかしお盆に現れた他県に住む叔母の鮮やかな指摘で、母の認知症は一夜にして親戚全員に知れ渡ったのでした。こんなことなら、もっと早く打ち明けていれば良かった。心底そう思いました。母はこの時、67歳。年齢の若さに加え、血のつながった兄妹が認知症を発症したとあって、伯父・叔母たちには「明日は我が身」という思いがあったのでしょう。叔母の計らいで、すぐに「親戚会議」が開かれました。

母の兄、妹、弟、そして娘の私で開かれた「親戚会議」で決めた3つのルールは、以下の内容でした。

  • もしも母と私のどちらか1人しか助けられない場合、この先長く生きる可能性の高い私を優先して助ける。
  • 私は介護を理由に、週刊誌の編集者を絶対に辞めない。会社を退職せずにそのまま続ける。
  • 介護離職しないよう、私は毎日積極的に伯父・叔母たちのサポートを受ける。

その頃の私の帰宅は、毎日23時台。母は自宅の中で躁うつが激しくなっていたため、昼ごはんは私が作り置きして出社した後、親戚が母の夕飯を自宅に運んで、ご機嫌伺いを兼ねて一緒に食事をしてくれるようになりました。月水金は弟夫婦、火木は兄夫婦が担当です。

親戚に母の夜ごはんをお願いできたことで、私は仕事に没頭することができました。会社にいても、「急いで帰らなきゃ」という不安から逃れることができたからです。

たびたび母がヤカンを焦がした台所
たびたび母がヤカンを焦がした台所。当時のヤカンがまだ残っている。

未来を描くためのお金の算段

しばらくすると、母の兄から「お金の話をしよう」と提案がありました。話し合うまでに、母の預金残高を確認してきてほしい、と。

実は、このお金にまつわる話し合いに、私は当初ものすごく抵抗がありました。伯父と母はあまり仲が良くなかったため、財産まで詳らかにするのは、正直いかがなものかと思っていたのです。でもいま振り返れば、この時に伯父が提案した「お金の残高を明らかにして、介護を計画的に捉える話し合い」は、私の介護生活のターニングポイントとなりました。

まず伯父に聞かれたのは「母さん、あと何年生きると思う?」でした。私が「まだ67歳だから、10年かな」と答えると、「最低で10年だな。その時、お前は50歳にもなっていない。まだまだ働き盛りじゃないか!」と伯父が優しく畳み掛けます。

この時点でわかっているだけの母の預金残高と、生命保険で下りる額を書き出しました。伯父の質問と指摘によって、日々の介護で混乱していた私の頭がかなりクリアになっていったのを今でも覚えています。

「預金残高をざっくり10で割った金額が、1年で使える額の目安だから頭に入れた方がいいよ」

「お金が足りなくなったら、生命保険を使うことになるけど、認知症だと生前いくら下りるか、保険会社に聞いた?」

「生命保険に手を付けるのは、最終手段だよ。母さんは自分が死んでも、お前により良く生きてほしいと思って残したお金なんだから」

最後に伯父から、「お前は1年後、どういう状態になっているのがいいと思う?」と聞かれました。私が母を見る担当は、土日と平日の夜中。たまに徘徊するようになっていた母の状況を踏まえて、私はこう答えました。

「私も毎晩気が休まらない。この生活は持って1年だと思う。特別養護老人ホームは希望者が多くて、1年後に入所できる可能性は低いから、まずグループホームに入ってほしい」

1年後にグループホームへ入所。そうと決まれば、あとはこの目標に向けて動くだけです。平日の夜は、我が家の予算と母に合いそうなグループホームをピックアップ。土日に施設の見学&面談予約を入れ、多い日には1日7軒ほど、母と施設をめぐりました。どうしても入りたいホームの場合は、伯父と伯母にも一緒に見学・面談し、母一人子一人の介護状況を伯父たちにも話してもらいました。

介護疲れにならない母との接し方

予定通り、私は1年後に母をグループホームに入れることができました。しかし入所がもう少し遅かったら、いろいろと危ないことが起こっていたかもしれません。

というのも、私が酷暑の夜に帰宅すると、母が脱水状態になりかけたことがあったからです。クーラーを切った後、リモコンをどこに置いたのかがわからなくなり、母は黙って耐えていたのでした。これは認知症によくある症状で、「大切なものだからしまわなくちゃ」と物をしまうと、在り処がわからなくなるのです。

ここからは認知症の在宅介護で起こったことをお話しします。認知症の在宅介護では、日々トラブルが発生します。一番困ったのは、私の部屋のデスクに置いたデジカメと翌日取材のプレスリリースがなくなったことでした。どこにあったと思いますか? 答えは、なんと冷凍庫。デジカメは完全に凍っておらず、シャリシャリと音を立てながらもなんとか動いてくれました。しかし会社にFAXで届いたプレスリリースは文字が滲んでしまい、まったく読むことができません。翌日、予備知識がほぼないまま現場に行き、冷や汗をかきながら取材をしたことを覚えています。

帰宅すると、何かしら物がなくなっているのは日常茶飯事です。その度に母を怒りたくもなります。でも、その気持ちをグッと堪えて、私は毎度、母に「よっ! しまい上手」、「惜しい! しまう場所が違う」とツッコミを入れていました。アクシデントも笑いに変える。母と私の心の平穏のために、そんなことを心がけていました。

母は大事と思ったものをティッシュやキッチンペーパーに包んでしまう。ただし包みを開けると、たいてい出てくるのは割り箸。
母は大事と思ったものをティッシュやキッチンペーパーに包んでしまう。ただし包みを開けると、たいてい出てくるのは割り箸。

周囲に助けを求めることの大切さ

介護をする側は、言いようのないやるせなさが日々積もっていきます。そんな時は心の中で「クソー!」と言いながら、台所の隅で350ミリの缶ビールを空けていました。また泣くことでストレスを解消したいと、週末限定で悲しい映画を観ては号泣することもありました。

1年後の自分と家族の姿を見据えて、「介護で疲れている自分」に自覚的になることは必要です。異常な心理状況の毎日で、心は平気でいられないから。母の認知症を親戚に知られたとき、叔母が言った言葉を今でも覚えています。

「1人で悩んでいたって、解決できないよ? ちゃんと『助けて』って人に言わなきゃ」

ビールや映画で心の疲れが解消しなければ、ぜひ友だちに愚痴を聞いてもらいましょう。友だちがピンチになったら、今度はあなたが愚痴を聞いてあげればいいのです。

母はその後、自分のパーソナリティを深く理解してくれる認知症専用のグループホームに入所し、自宅にいるときよりも笑顔が増え、毎日機嫌よく暮らしています。

母の口ぐせは「いいわよ」。娘から見ると、母のちょいちょい上から目線のコメントが気にはなりますが、そのたびに「大物芸能人か!」とツッコミを入れて、よく笑いあっています。

母を理解する人は、家族以外にもきっといる。信じられる相手を求めて話し合うことで、家族以上に本人思いの介護施設が見つかるかもしれません。

 


文:横山由希路(よこやま・ゆきじ)

エンタメ系情報誌の編集者を経て、フリーライターとして独立。実母の介護は10年目になる。在宅介護の苦労は、認知症の周辺症状よりも、「一度叱責し始めると止まらない」といった母の「毒親」としての行動が再び現れたこと。母の過去について自然と考えるように。


編集:水上歩美(ノオト)

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